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千田嘉博教授の江戸城大調査:所JAPAN

徳川家康が高さ68メートルの大天守を建設した理由


葛飾北斎 富嶽三十六景 江戸日本橋。
富士と並んで映える江戸城の絶景。
狙いすました構図なのだろうか。

千田嘉博氏、城郭考古学者。
磯田道史氏と並んで、研究一筋の現場主義者。
本物の歴史家です。

江戸城の大天守の高さは、65メートルの国会議事堂を凌ぐ68メートル。

相当な慎重型で吝嗇なのに、「ローマの都を大理石の都に造りかえる」と豪語して、財政を傾かせたほどに熱中したローマ帝国初代皇帝アウグストゥスと同じ星座群(白虎:牡牛座・乙女座・山羊座)の徳川家康は、これまた吝嗇なのに、都市建設が大好きな内政型だった。ちなみに、伊達政宗も同じ星座群です。

大天守を建設した直接の狙いは徳川家の威容を天下に知らしめるためだけど、間接的には、都造りが大好きだったから。

現在でも、白虎の成功者の多くは、現金よりも不動産が大好き。人の好みは個性ではなく、より多くは、天体とDNAの影響を受けている。

多くの歴史通には理解されないかもしれないけど、「宗教と歴史」は人類の二本柱ですから、この双方を研究すると、脳的には摩訶不思議と感じられる「実態」が見えてくる。

ここをえぐれないと人類の歴史の深い渦が見えてこない。

日本橋の風景から家康の独創性が見えてくる

地道と節約、忍耐が売りの家康だったけど、江戸の街を栄えさせることも趣味の一つだった。

多岐に渡るアウグストゥスとの共通項から、そのような見方もできる。その一端が、町屋に櫓を造らせたことに見いだせる。

江戸屏風図(一部分)

町家にお城の櫓をつけさせた類を見ない独創性。その意図は、東京の高層ビルのように、地方から来た武士たちを驚かせて、幕府には勝てないと思わせること。

秀吉が、「家康はバカだ。バカだけど油断のならないバカだ」と評したように、戦いは下手だったけど、街づくりの才能は際立っていた。

ちなみに、千田先生によると、櫓の建設資金は商人に負担させ、そのご褒美として、将軍と面会し、能などを同席して見物できる特権を与えたらしい。この抜け目のなさは、さすが、吝嗇のお手本の家康といえるかもしれない。

最古級の江戸城絵図から家康の超心配性が読み取れる


千田教授が発見した「最古級の江戸城絵図:江戸始図」松江歴史館所蔵。

重要なポイントは、攻めてきた敵を包囲して殲滅させるための「桝形」を連続して造っていたこと。

黒い線が、連続する変形桝形。

ここで、千田先生が、「家康は超心配性だった」と解説していたが、まさにその通り。

江戸の街、最大の謎は二つ

①海に面した江戸城の謎

超心配性の慎重居士である家康は、なぜ、海に面した軟弱な地盤(湿地帯)の上に江戸の街を築こうと思ったのかということが第一の謎になる。

ちなみに、太田道灌が建設した日比谷湾に面する旧江戸城は固い地盤の上に建設されていた。しかし、家康が移封されたときは、朽ち果てたも同然の廃墟だった。

所ジョージ氏が、「なんで、もうちょっと陸の奥に建てなかったのか」と疑問を呈したのは当然のことです。

この疑問に対して、千田先生は、「海に面していると物資の運搬が便利だから」と答えていた。

日本橋雪晴:歌川広重

実際に、家康は千葉から塩を運搬させるための小名木川のような人工的運河を幾つも建設していた。東京に流れる直線的な河川は全て人口の運河である。

千田先生の解説は、歴史の一般論であり、これ以外の説を唱える歴史学者は寡聞にして知らない。

しかし、私の書物で説明しているように、「運搬の利便性」と「城の防御性」を選択するとき、家康ならどちらを選択するだろうかという点が問題になる。

秀吉は難波の港に面して大坂城を建設し、そこから海を埋め立てて、そこに城下町を築いた。家康はそれに倣って、同じように海を埋め立てた。

これは事実である。しかし、豪放磊落な秀吉の思考と超心配性の家康の思考を同列に扱っていいのだろうか。

私は承服しがたい。
このような観点は全て結果論にすぎない。

利便と防御の二者択一においては、脳的には、常に防御が優先する。ましてや、超心配性の家康が利便性を選択するとはとても考えられない。

この答えは、私の書物に記している。

②江戸の街が渦巻き状に建設された謎

江戸の街は「の」の字を描く渦巻き状に造られている。

これは、いびつな地形を承知のうえで、海に面して街を造ったことから生じる必然である。

千田先生は、渦巻き状の街という、世界に例を見ない建設方法によって、街が自然と拡大でき、やがてパリの54万人、ロンドンの86万人を凌ぐ世界一を誇る百万都市:江戸が成立したと解説している。これも一般論で、これ以外の説は見たことがない。

ところが、時計回りの「の」の字は、ネジがそうであるように、実は、収束形なのである。解放型(発展型)にするためには、左回りの反時計回りでなければならない。

なぜ、右回りに造ったのか!

右回りが収束形であることは分かっていたはずなのに!

ここが最大の謎なのだけど、私の書物以外で、この答えが記されたことはない。

なぜなら、この答えを見つけるためには『古事記』を解読する必要があるからです。

そして、その時、海の埋め立てではなく、秀吉の難波港と家康の江戸の港という点が線となって現れてくる。

家康は、断じて秀吉の真似をしたわけではない。
真似をさせられたのかもしれないが。

また、幕府の力を見せつけるために海を埋め立てわけでもない。

超心配性の家康が、そのような実利に乏しい見栄を選択したとするのは道理に合わない。

ちなみに、家康が大坂城を超える巨大な城を建築した直接の動機は、数々の苦渋を強いられた憎き秀吉への怨念からである。

扁桃体と海馬が隣接している白虎は、そのような恨みを執拗に持つ内向性を秘めている。

全ての事柄には因がある。
江戸の街が右回りに建設されたのにも深い理由が存在する。

しかし、人の本体(魂魄)と肉体が別物であり、かつ、本体(魂魄)が寄生体であり、肉体が宿主にすぎないことを知らない現人類の知識では、理解不能の事柄になるかもしれない。

いずれにしても、伝統を愛する保守的な家康が海に面して城と街を建設したのも、それが世界に例を見ない右回りの都になったのも、正統な理由が存在する。
 
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戦国時代の新説。織田信長の新説。明智光秀の新説。戦国時代を駆けた忍者の真相。六芒星・五芒星・四神相応・三種の神器を紐解く。江戸右回り渦巻き状の秘密。日本統一の歴史は通常の歴史ではなかった。